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私の視点 「『国家〇〇年の計』会議」

  政府とマスコミの間の不信感は、両者関係者と話をしていると、とても深いところに起因していて修復不能な関係にあるかのように思えてしまう。報道関係者はただやみ雲に菅政権の機能不全を責める。また、政府関係者はマスコミの一貫性のない報道をあげつらう。

 しかしながら、現況の責任の多くは、「菅対小沢」の党首選の時に、“小沢憎し”の一点で菅氏の後押しをしたマスコミにあるような気がするのだが、どうもその点になると私の“言葉”が相手に通じなくなる。「過去のことは別にして」と、起因するところに目を向けることなく、菅氏の、枝野氏の、そして再登場した仙石氏の「ダメ男ばなし」になってしまうのだ。

 政府のマスコミ戦略にも問題がある。自分達の真意が伝えられていないという思いが強いばかりに、つい記者達への対応が疎(おろそ)かになっているのではないか。記者の間のお三方を筆頭にした政権の代表的存在の評判ははなはだよろしくない。

 両者の根深い不信感を影で喜んでいるのは、野党特に自民党だ。もう既に「霞ヶ関」を掌中(しょうちゅう)におさめた自信と先週末の統一地方選での勝利で余裕の表情すら浮かべている。だが、可能性はほとんど無いが仮に総選挙になって政権を握ったからといって今の自民党に安定した国家運営ができるとは到底思えない。

 我々は今の日本に何が必要なのかを考えなければならない。それは大連合でもなく、政権交代でもない。大胆な発想の転換だ。国の運営の基幹を成しながら、これまでに関係がねじれて本来果たすべく機能が果たせなくなっているものの建て直し及び新たな設計が必要なのだ。

 政府と報道機関との関係にしても、誰が見ても分るような不健全で歪(いびつ)なものになっている。癒着とも言える本来の報道の立場を考えればあってはならない関係がある一方で、異様なまでの緊張感を漂わせたりすることが少なくない。健全な批判精神というのは小学生でも知っている言葉だが、現在の両者には存在しないように国民の目に映る。

 両者には最優先しなければならない存在がある。それは、市井だ。一般市民(国民)だ。政治家も報道関係者も問われればそう答えるだろうが、実際にはそれを忘れているのではないだろうか。

 我々国民が望んでいることを汲み上げるのが行政や報道の役割だ。それを良好な社会作りに役立てるのが国政を預かる者の責任だ。それを忘れてしまっては困る。

 たとえ菅政権が倒れるにしてもそのまま継続するにしても、国民の側からすれば両者の良好な関係が望ましい。今回のような危機的な状況を打開するためにはそれは不可欠に思われる。

 そのためにはまず政府とマスコミ(そこにニュー・メディアを加えるのも良い)が代表を出し合って話し合いのテイブルを囲む場を持つべきだ。そして、20年、30年、いや100年かかるかもしれないが、その位の長期的視野に立って日本を再建するために、両者の持つ機能がどう使われるべきかを案出する「『国家〇〇年の計』会議」を作るのだ。

 私を含めて再三にわたって記者クラブの是非を話し合ってきた。この「『国家〇〇年の計』会議」は、これまでの政府が発信をして報道がそれを国民に伝えるという記者クラブ制度を大きく発展させて、政府と報道それぞれが知恵を出し合って国造りをする 「双方向発信型」の記者クラブである。

 このような閉塞状況を打破するには、思い切った発想が必要だ。過去の根深いしがらみにいつまでも拘泥(こうでい)しているのではなく、若い世代が夢を持てる、自らが参画したくなるような社会を私たち大人世代が「置き土産」にしなけらばならない。

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