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私の視点 死の灰に晒された世代からの手紙

  最近の報道の中で気になるものに「1950年代に繰り返し行なわれた核実験で、日本中が放射能に汚染されていた。その線量は今首都圏で騒がれている数値よりはるかに高いものであった。なのに人体への影響はあまりなかった。だから現在の放射線量であれば心配する必要がないのではないか」とする指摘がある。

 私が見たテレビ番組では、司会者もコメンテイターも「あまり神経質に騒ぎするのも…」という感じで、現況を心配する世論を揶揄するような空気さえ感じられた。それを一緒に見た家人は「なんか気持ち悪いね」と不快感を隠さなかった。

 確かに、その指摘だけを真に受ければ、そうかとうなずく方も少なくはなかろう。だが、私はそこに恣意的なものを感じた。そこに何か隠された情報があるのではないかと思えた。そこで日本の原子力行政を調べてみた。

 調べれば調べるほど見えてくるのは、日本のアメリカへのひどい従属ぶりである。独立国とは名ばかりで、そこには日本政府の意思は無いに等しい。

 政治経済、安全保障など多くの分野において米国にコントロールされてきたのは分かっていたつもりだが、原子力行政がここまでひどいとは恥ずかしながら私は知らなかった。 

 時計の針を大きく過去に戻して57年前の1954年に照準を合わせてみた。当時日本では「死の灰(放射性降下物質)」に話題が集中していた。米国がその年の3月1日に南太平洋上で行なった水爆実験で多くの漁船が被爆、中でもマグロ漁船「第五福竜丸」が受けた被害は大きく、久保山無線長(当時40歳)が死亡した。

 キャッスル作戦と名付けられた核実験は2ヵ月半の間に合計6回実施された(その内1回は失敗)。爆発の規模の大きさもあり、大量の死の灰を全世界に撒き散らしたと言われている。

 久保山さんを診察した日本医師団は死因を「放射能症」としたが、米国側はそれを否定、今に至っても「被爆が直接の死因ではない」としている。

 広島と長崎に落とされた原爆の記憶がまだ鮮明に残されていただけに日本国民の動揺は大きかった。連日マスコミは第五福竜丸事件を報道した。

 当時はまだテレビはなく、情報源は新聞とレイディオ(radio)、それに映画館で上映されるニューズ映像のみ。小学校一年生であった私は、新聞よりも映画館で観た水爆実験と第五福竜丸の映像に大きな衝撃を受け、暗闇の中で新聞記者になるとの思いをより強くしたものだ。

 第五福竜丸事件を大々的に報道するマスコミに対して、米国政府は日本政府を使い様々な形で圧力をかけて「死の灰」騒動の収束を図った。それはただ単に反核運動を嫌ったからというよりも、「死の灰騒動」がその後進めようとしていた原発の売り込みに大きな障害になると考えたからだと思われる。

 当時の新聞は、「日本を信用しないアメリカは、核開発をする恐れがあると原発の売却を渋った。そこを正力が人脈を使ってアメリカ側を説き伏せて購入に漕ぎ着けた」などという話に仕立て上げているが、実際は逆で日本に買わせたかったのだ。

 その頃はまだ米政府のニラミは絶対的なものであり、盾を突ける新聞社は皆無であった。圧力がかけられ、結局、日本に降り落ちる死の灰つまりは放射線物質を深刻な問題に取り上げる新聞社は現れなかった。

 その時「世論の番人」つまりはマスコミのお目付け役に米国から指名されたのが故正力松太郎氏である。当時、讀賣新聞のボスであった正力氏が「核は安全だよ」キャンペインの総元締め役に米政府から指名され、パニック鎮静化にひと役買ったと言われている。

 正力氏は意外に知られていないことだが、戦犯であった。それもA級だ。米国側の資料によると、正力氏と占領軍の間で一種の司法取引が行なわれ、同氏は47年9月に釈放されている。その際に正力氏とCIAの関係(CIAが正力氏に付けたコードネームはpodam)が築かれたとされる。かつて警察官僚であった正力氏が、米諜報機関をバックに付ければ、鬼に金棒、怖いものなしであった。当然のことながらその流れに逆らえる者はいなかった。

 正力氏は第五福竜丸騒ぎの翌年の55年、讀賣の社主でありながら衆議院選挙に出馬、圧倒的な力で当選すると、翌56年には初代原子力委員長と初代科学技術庁長官に就いた。また翌57年になると、今度はアメリカの威を借りる岸信介内閣の一員である国務大臣になり上記の役に国家安全委員長のポストを付け加えた。

 正力氏の掲げた「原子力平和利用」の旗の下に多くの政治家が結集、日本の原子力行政が産声を上げた。正力氏を支える集団のトップに抜擢されたのが当時「米国のお気に入りNo1」であった中曽根康弘氏であった。

 中曽根氏は第五福竜丸事件の前から正力氏に近付き、「原子力平和利用」に関わり始めていた。事件の起きた直後の54年の3月には初の原子力予算を国会に提出、成立させている。専門家の育成の整備にも着手した。そんな実績が認められ、中曽根氏は1959年の第二次岸内閣では論功行賞で科学技術庁長官に任命され、原子力委員会の委員長の椅子も与えられた。

 米国主導の陽動作戦によって「死の灰」から目をそらされた庶民は、「三種の神器(洗濯機、冷蔵庫、テレビ)」等の電化製品の購入に躍起になり、その後も「新三種の神器(カラーテレビ、クーラー、自動車)」に目を奪われるようになっていく。神器に必要な電力が原子力を利用したものであることに気を配る声はあったものの、高度成長の勢いにかき消され、「遠吠え」でしかなかったし、それに耳を貸す者はほとんどいなかった。

 そんな高度成長の中で繰り返された狂宴だが、冒頭書いたように最近の報道によれば、実はその当時我々は死の灰を浴び続けていたのだ。それも今福島原発から飛んできている数倍の線量だとのこと。正直言って、あの当時そんなことを口にしたり、子供を守ろうとする大人は私の周りにはいなかった。

 報道は、あれだけの死の灰を浴びた子ども達が60年近く経過した今になっても、大過なく中高年期にまでさしかかっている。寿命が大幅に縮まったという話は聞かない。だから、それより低い線量の現況であれば大丈夫と言う。

 だが待てよ、周りを見渡せば、50、60代にがん患者の何と多いことか。私もその一人だ。

 もちろんその因果関係を調べたわけではないから確証があるわけではないが、それにしても「がんに罹った」「がんで他界した」と聞くことが多い。医学の進歩もあるから一概には言えぬが、以前がんは特殊な病気であったはず。それが今ではまるで一般的な病名にさえ聞こえるほどに増えた。

 と言うことはやはり、当時子供だった世代に死の灰が大きな影響を与えているのではないか。少なくともそれを疑うのが普通ではないか。そして、たとえ線量はその数分の一とはいえ、事故発生から5ヶ月近く福島原発から今も発し続けられる放射線物質を被曝する子供たちは大きな危険にさらされていると考えるのが当然ではないか。

 だから拙文の結論になるが、冒頭に書いたような一部報道による情報操作に騙されてはならない。我々が常に意識の根底に置いておかねばならないのは、放射線は我々人類にとってとても怖いもの。「神の領域」にそっと置いておくべきで、便利だからと手を出してはならないものということ。

 間違っても「あの時大丈夫だったから、線量の少ない今回は大丈夫」などという情報に惑わされてはならない。

コメント
浅井久仁臣様
 このたび、ウェブサイト「ろんじんネット」http://ronzine.net を公開致しました。
弊サイトは、政治、経済、社会に関する読み応えのあるブログを紹介し
その更新情報や注目されている記事をお伝えするサイトです。
貴ブログを勝手ながらご紹介させていただいておりますのでご挨拶に参りました。
昨今、ブログはその潜在力をまだ充分に発揮していないと考えておりますが、
ろんじんネットは読者と著者双方へのメリットをご提供させていただくことで
ブログの発展を微力ながら後押しできるのではないかと考えております。
突然の、記事内容に無関係のコメント失礼致しました。
浅井久仁臣様の益々のご活躍を心よりお祈り申し上げます。
なるほど。
こういう想像もあり得る話だと考えていました。検証のしようがないのが残念。

戦中戦後世代が寿命を迎える時期を過ぎ、高度経済成長世代が寿命を迎える時期が来た時、また事情は変わってくるのだろうか。
世代が違うと生体濃縮されている物質は当時の世相を映すのだろうか。興味は尽きません。

どの時代、どの地域に生まれても逆境というものはある。
過去ブルーハーツというバンドが「俺は俺の死を死にたい」と歌っていましたが、どのような逆境であれ、素直に、謙虚に、志高く終了まで邁進したいと願う。例え反面教師であろうともできれば次世代への礎とならんことを。

支離滅裂なコメントを残してすみません。
このエントリを読むことができたことを感謝します。
  • hig
  • 2011/08/03 6:36 AM
自分の考えをまとめるのに何と時間のかかることか。これほどの長文をまとめるのにはさぞ苦心されたことでしょう。

序文にある「なのに人体への影響はあまりなかった。」という表現について不審に思うところがあり投稿します。

個人の意見としては「あまり神経質にならなくても…」という部分においては同意するものの、
人体への影響は「なかった」のか。「あまり」とはどの程度なのか。
情報の受信者において、物事に対する意見を形成するのに「最も大事な要素」が明らかにされないまま結論されているところが非常に不愉快に感じられる。
どの程度であれば「良い」と感じるか、それとも「悪い」と感じるか。判断基準は人それぞれ違うのではないだろうか。

公の場や公衆の面前に晒される場において、「私はこのように結論した、私はこのように思う」ということだけを伝えようとするスタンスが、報道という職業の意義に果たして合致するのか。
視聴して違和感や嫌悪感を感じるならそもそも観なければ良いのではないか、という意見があることは承知しているものの、このエントリにあるように、一見正しい報道であっても、それが「本当に正しい」のか、「正しい風を装っているのか」は見分けがつきにくい。
そもそも浅井さんのような方が「調べて」状況を把握できるようなもの。特に原子力や放射線におけるデータにおいては徹底的に隠蔽されているものもあると言う。
放射線に関する知識がある人間を身の回りに探すことの方が困難な状況、どのようにこれを報道するべきか腐心してもその答えが出しにくいことは承知だが、結果的に「意見を主として発表し、その根拠を明確にすることに少なくとも情熱をかけた様子を見せない」報道に対しては、世論誘導が行われているのかもしれないという危険意識が芽生えるのも仕方のない話ではないだろうか。

このような報道に慣れ親しんでいて、そもそも危険意識というものが発生しにくいということは当然ありえるだろうし、危険を感じたところで「真実を見究めるために、然るべき情報源を見つけ出し判断材料とする」行為を万人に求めることができようか。毎日の生活を得、国民の義務を果たすべく「真実を見究めること」以外の職において努力しておられる諸兄のすべてにそんな余裕があるとは思えない。


私は報道に係る職業の人間ではありません。門外漢がこのようなことを考えているということには大きな違和感を感じています。
浅井さん、また、このコメントを読まれた方々はどのようにお考えになりますか。もし機会があればみなさんのご意見を伺ってみたいですが。。。

またも駄文にて失礼いたしますが、どうかご容赦ください。
  • hig
  • 2011/08/09 12:26 AM
何度かTBさせて頂いていますがよろしくお願いします。

>hig様
hig様の仰ることはもっともですが
仮にデータや根拠を元にして議論しても無名だと相手にされないところがどうもありますよね。
各地で放射線の測定をされた方が行政にもっていってもスルーされたり国民も大事にしない。
ジャーナリストで政治家に顔を聞かして本当のことを言わない人間が恵まれる、視聴者ネットなら読者もついてくる。あるいは適当にあおる。
そういうところが大きい気がします。国民が完全になめられているともいえます。
例えば、それこそデタラメな報道をしたらボーガンを国民から打ち込まれる危険を感じたらそういう報道はしない。現状はジャーナリストが政治家を裏切って本当のことを報道してもたいていは殺されはしないから国民の立場につくってことです。
浅井さん、この場を少しお借りします。


>yookinchanaさま
ご意見ありがとうございました。
おっしゃっていることが現実の問題であることを承知しています。
この頃、私自身がメディアをどのように利用していけばよいかと色々思案している中で考えたことをコメントしてみました。

どこの国でもそうなっているのだろうと思いますが、どういったメディアでも「わかりやすく」視聴者に説明することに腐心しているのでしょう。
その努力が奏功していることは、みなさんご自身のことにおいて考えてみていただければよくわかる話ではないでしょうか。


極論しての投稿になりましたが、先のコメントにおいて提起してみたかったのは下記のようなことでした。

・独力で各所の情報源(データ一覧や調査報告など)を探し出し、理解を試みるという力を発揮できる方々は、より事実に迫った情報を得る事ができる。
・一般人においては、上記「情報源を探し出し」というところからすでに、非常に高い壁として存在しているのではないか。
・メディアに関わる方々の命題が「伝える」という性質のものであるならば、最も大事にするべきなのは意見ではなく、情報源そのものではないだろうか。

プレゼンテーションの技法において、まず結論を話すというのが定石だとよく話されています。
結論ありきで話が進行するのはわかりやすい反面、論拠があいまいでも見た目上議論されたようには見える。
それは見る側が充分なトレーニングを積んでいないからだと思っています。

メディアにおいての命題が「伝える」ということであるならばという前提で考えるに(私としてはそうあってほしい)、
教育の場やNHKの趣味番組のように、視聴者がトレーニングを積むという方向に促していくのも、「より深く伝わる」ためには重要な役割を果たすのではないでしょうか。
「○○とは▲▲である、さあ覚えなさい」と延々繰り返す「勉強」に辟易した経験はありませんか。

公に広く喧伝できる力を持ちながら、対等の立場で議論することを良しとできないのは、自身を守るためにはある程度は仕方ない部分があると思いますが、
それがエスカレートして「視聴者というのはバカの集まりだから、論拠というところはテキトーで構わない」と一部の中の人たちが考えているのではないだろうかという疑念を禁じ得ません。
しかしメディアからの発信がキッカケとなって様々な場所で議論が始まっているのです。不釣り合いには感じられませんか。

ただ「ネタを提供する」ことがメディアの使命で、番組の中での意見や議論は「演出」なのでしょうか。
中の人たちが本当にそう思ってやっているとは思えないのです。
できれば曖昧なスタンスから脱却してほしい、日々そう感じており、先のコメントを書いた次第です。
  • hig
  • 2011/08/26 7:11 PM
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