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内田市長と歓談

 今日、内田岡崎市長と歓談してきた。

 昔話からペット話、そして「岡崎の観光都市計画」、「Isao Tomita記念館建設計画」まで、話は多岐にわたり大いに盛り上がった。

 昔話は、私の母親のこと…そう。内田さんは私の母親が教員をしていた岡崎市の城北中学の生徒だったのだ。

 同中学は、後の教育長で「三河の管理教育」の名を全国に轟かせた故鈴村正弘氏が1959年に初代校長として就任、重量機関車のように教職員や生徒を引っ張り続け、第一期卒業生から難関校に大量入学させ、教育界のみならず、三河全域にその名を知らしめた。

 その反動は当然大きく、「城北の番長グループ(我々はただ、バンと呼んでいた)」は市内最強勢力。自転車のチェーン(当時人気の喧嘩アイテム)を手に手に肩で風を切っていた。私の様な「田舎中学」の生徒が街中を歩いていると私の態度と視線が気に食わなかったらしく、チェーンを振り回しながら「『どこのもんだ?』とヤクザ紛いに脅してきた」ものだ。
 

 「オレと踊るかあ」と言う相手に「男と踊ってもつまらん」と答えると、「なめんじゃねえぞ!」と吼えてきたが、こちらが相手にしないと、何もせずに「次の獲物」を求めて町を闊歩していた。その光景は、劇画そのものだった。

内田さんは私よりひと世代下だが、城北のバンたちは相変わらず猛威を振るっていたようで、ある男性教師はチェーンで耳を切られたそうだ。

「浅井先生は凄かったですよ」
内田さんは母にまつわる自らの目撃談を話し始めた。

 卒業式で唄う歌を母が指導していた時の事。番長グループの連中はだらけて指導に従おうとしなかった。すると、母は彼らを並ばせてお説教した。すると、中のひとりが拳を固めて殴る姿勢を見せた。それに対して、我がお母上、ではなく「エレキババア(生徒が母につけたあだ名)」は、「殴れるものなら殴ってごらんなさい」と一喝。

「その生徒の拳がぶるぶる震えていました」と内田さん。まあ、親族の武勇伝は聞いて耳障りではない。

 しかし、内田さんは「多くの男子生徒が浅井先生を恐がっていましたが、私は殴られた事はありません」と続けた。

 ん?と言う事は、やはり母は暴力に頼っていたのだ。当時、教師や親の、生徒や子に対する暴力は、“愛のムチ”と容認する空気があったとはいえ、教育者としてはいただけない。

 まあ、でもそれは「今はよき時代のお話」としておこう。大切な事は、そういう教育に戻さない事だから。

 ペットの話しは、「犬は17歳になるんですが、拾ってきた子猫を抱いて寝てやる優しい子なんです」と5匹の猫と1匹の犬を飼う(それも全て捨てられたもの)内田さんの独擅場。ただでさえ下がり気味の目尻が下がりっぱなしだった。

 当然、四方山話だけではなく、私から幾つか提言させていただいた。メモを取りながら真剣に聞いていただいた。中でも、「Isao Tomita 記念館」構想については、「盲点だった」と素直に認められた。

 以前にも書いたが、電子音楽の世界的巨匠、冨田勲氏は岡崎出身だ。しかしながら、その偉業を称えるものは、この町に何一つ存在しない。数々の名曲を生み出したモーグ・シンセサイザーを譲っていただき、「Isao Tomitaの世界」を作れば、世界各地から音楽愛好家を呼び寄せる事も可能であるはず。

 観光都市宣言をした内田市長にはぜひこの計画を推進して欲しい。

 市議会の会期が明けたら“エレキババア”を伴って来る事を約し、市長室を出た。  


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