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茜の里

  一通の封書が届いた。

 中には、「茜の里たより NO190」が入っていた。それは、たよりが次回は最終号になると伝えている。  

 埼玉の山奥、それも後ろを振り向けば群馬県というところに「茜の里」という施設がある。

 それは東京都の職員として福祉の現場に携わった丸本功彦さんが都政に見切りをつけて、「障害の種類や有無にこだわらない交流の場、既存の福祉施設等に適応が困難だったり、不安定で行き場が見つからない人々のための場」として、理解者の力を得て昭和62年に設立したものだ。

 里山に開かれた施設には25年の間にいろいろな人が訪れ、滞在(宿泊を含む)し、茜や藍などの草木染や農作業をして心を癒され、中には社会復帰した人もいる。

 利用者というか来訪者には、あるじ(理事長)である丸本さんと田子さんという女性が中心になって対応し、それを多くの人が様々な面で支えて運営が成り立ってきた。

 関係者はそういう言い方はしなかったが、私が見たところ、利用者はあちこちの施設から訳の分からない診断をされたり、放り出されたりした人たちが少なくなかった。だから、ふたりの活動には根気などという言葉では言い表せない粘り強い愛情が必要だった。

 丸本さんが利用者と外出するのも大切な社会復帰の過程だったが、時に頑として利用者が動かなくなり、何時間も(時には真夜中)その場に居続ける事も稀ではなかった。彼はそういう場合でも相手が動くのを待つのだ。

 ある時、相談があると言って、当時私が南浦和で経営していた英会話スクールを丸本さんが訪れてきた。

 「茜に通う若者に英会話を習わせたいのだが、受け入れてもらえないか」という相談だった。

 ひとりは自閉症(だったと思う)、もうひとりは「自閉症とか躁鬱(そううつ)と診断されているが違う」と丸本さんが固く信じる若者だった。

 
 前者は1回目で離脱してしまったが、後者は明らかに医師などの診断とは違う面を見せた。と言うか、初回から能力の高さを見せた。

 「彼はこうでもしないと、狭い自分のテリトリーから出ようとしないので続けさせたい」と丸本さんは語り、若者と一緒に英会話を習いに南浦和まで毎回足を運んだ。

 習い始めてそんなに経たない内に東日本大震災が起きた。学校の外国人教師は国外避難をしてしまい、担当が私になった。

 若者は別として、丸本さんは実は、私と同じ愛知県岡崎市の同じ高校を卒業した、しかも同期生だ。60を過ぎて同期生に教えられるのは嫌だろうと思ったが、そんな感情はおくびにも出さず、一緒に楽しそうにレッスンを受けてくれた。

 丸本さんを見ていると、彼のことを、世に言うカウンセラーとかセラピストなどの言葉で当てはめる気にはならない。彼を頼ってくる来訪者・利用者の伴走者だ。

 そんな過酷な活動だ。丸本さんは60を越えてからは、体力面での限界を感じ始めていたようだ。そして数年前、倒れた。

 施設を後進に譲ることも考えたに違いない。といっても、丸本さんがやってきた仕事は誰でも簡単に後を継げるようなものではないのだ。

 そこで、色々悩んだ末、茜の里を閉所すると決めた。そして昨年5月、事業を終了した。今は1年かけて、片付けと諸手続きをしている。

 丁寧に調べたわけではないが、このような利用者に「伴走する」施設は、全世界でも珍しいはずだ。経済効率を考えたらありえないやり方だからだ。

 何度も手書きの「茜の里たより」を見てはため息をついている。この世から姿を消すのは本当に残念でならない。

 

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