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初来日した「ナパーム弾の少女」 その1

 1枚の写真は、時として何十冊、いや何百冊の本をも凌ぐ力を持って、見る者に迫ってくる。
 第二次世界大戦末期、長崎に落とされた原爆で命を落とした弟を背負い、火葬の順番を待つ少年の写真http://www.youtube.com/watch?v=lgC7js4cEGkは、何度見ても涙無くしては見られない。1960年、日比谷公会堂で右翼の少年の刃に斃れた浅沼稲次郎氏(当時の日本社会党委員長)の姿は、当時13歳だった私に強い衝撃を与えた。他にも、1993年の「サラエボのロミオとジュリエットhttp://en.wikipedia.org/wiki/Romeo_and_Juliet_in_Sarajevo この記事はデタラメ。なお、記事中の『日本人のフリーランスTVカメラマン』とは私のことです」と言われた「恋の逃避行」に失敗して狙撃手の銃弾に撃ち抜かれたアドミラとボシュコの場合など、挙げればきりがない。
 それだけに、「1枚の写真」が歴史を変えることもある。その代表的なものが、1972年に世界中を怒りで震わせた、「ナパーム弾(注1)の少女」だ。  解放戦線と北ヴェトナム政府の執拗な抵抗に手を焼いた米軍は、南ヴェトナム政府軍と共に無差別かつ残忍な攻撃を繰り返した。  ゲリラ戦に共通する情況だが、南ヴェトナムでも「ゲリラ」と「住民」の区別がつかなくなっていた。米軍は空から「絨毯爆撃(注2)」「枯葉作戦(注3)」を繰り返し、国土は焦土と化した。また、北ヴェトナムへの北爆も執拗に行われた。
 そんな中、旧サイゴン(現ホーチミン)市郊外の小さな村にナパーム弾攻撃が行われた。ナパーム弾がもたらした燃焼によって9歳の少女が全身を炎に包まれた。彼女は着ていた服を、周りにいた大人の手を借りながら脱ぎ捨て、裸になって助けを求めた。
 その姿がAP通信のカメラマン、ニック・ウットによってフィルムに刻まれた。その少女の名は、キム・フック。現場には他にも報道関係者が居合わせており、動画も撮られていた。
 だが、世の中を動かしたのは動画ではなく、「1枚の写真」だった。APによって「戦争の恐怖」と題され世界に配信された写真は、やがて当時高まっていた反戦の気運をさらに高め、米国への抗議の声は世界各地から上がり、やがて世界中に轟くようになった。
 3年後の4月、首都サイゴンに迫る解放戦線の影に怯えて米国人は先を競って脱出した。傀儡(かいらい)政権の要人達やその家族も多くが脱出を試みた。米大使館の屋上から飛び立つ米軍ヘリにすがる現地人。それを蹴落とす米兵。その模様はTVカメラにもとらえられ、凄まじい人間模様に世界中が固唾を呑んだ。
 避難民の中に件の写真を撮ったニックもいた。米国報道機関は、国外への逃亡を希望する現地スタッフに手を差し伸べたのだ。一方、日本のメディアは、見捨てたと言われる。
 キム・フックさんには国外逃亡の道は開かれていなかった。ただ、「抗米救国」のシンボルとして扱われたこともあり、国から手厚い医療を受けることが許された。計17回の移植手術を受けている。
 だが、そこには落とし穴があった。特別扱いは、見返りとして国への奉仕も求められたのだ。
 治療中に医師への憧れから医学の道を歩む決心をしたフックさんが医科大学に合格すると、国はメディア、特に外国報道機関に対する宣伝に彼女を利用し始めたのだ。  その後彼女が留学を希望すると許されたが、その先はキューバだった。窮屈な環境から陽気な土地柄に移れたものの、同じ共産主義国家であることに変わりはなかった。(つづく)

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